せ/脊
丸身に同じ。「脊なしの板」とは丸身なき板なり。最上部の稜をもいう。「隅木の脊」など。
反り木の凸方の脊といい凹方を腹という。
せ/背
脊に同じ。樹木が地面に立っている(生えている)状態で、平地では南側、斜面では開けている側を 「背」という。背側は日当たりがいいので枝が沢山でてくる。反対側を「腹」という。 樹木を柱などに製材したとき、節の多い「背」は美観上のから、この面が壁内に隠れる ように使う。なお、大径の木から木取りされた柱には背も腹もない。
また、柱にあらかじめ破壊面を作ることで、木の乾燥収縮によって生じる内部応力を開放し、 他の部分に破壊が生じないようするための切れ込みは背に対して行われ、背割りと呼ばれる。
せい/成
横材の縦の寸法。木材の成。桁梁等においては下端より上端迄の距離をいう。俗に成と書く。
せいがいは/青海波
模様の一つ。図の如く円の一部を重ねあわせたるものなり。棟瓦を右の如き模様の形に並列したるときその瓦を青海波という。
せいかん/井幹
井桁のこと。せいかんろう/井幹ろう
井桁の形をなす園亭をいう。せいさ/青瑣
眼象の一種なり。ただその中の刻みは緑青にて塗りたるものに限る。又其の刻みは断面にて三角形をなすものとする。せいさもん/青瑣門
青瑣を附したる門。せいざい/製材
ケヤキの原木を盤や柱や土台の形状に挽いてもらったところです。大雑把に辺材の部分を取り除くと、末口64cmの丸太がこの程度の盤になります。せいざいさぎょう/製材作業
仕入れた丸太は、製材所へ搬入して挽いてもらいます。 (製材装置は回転もできるので、利用目的に合うように自由な形状に挽いてもらえます) 写真の材料は辺材が多く(ケヤキ材は心材と辺材が明瞭です)、使えない根の部分や白太を取除いたら、原木の半分近くを廃棄することなりました。製材した材料は作業場に搬入して乾燥させ、製材所よりかなり小さい帯鋸を使って部材に加工します。せいじょう/西浄
厠に同じ。せいた/脊板
横断面が弓状なる板をいう。すなわち円木より板等の諸材を探りたる残余のものなり。腰掛などにおいて人の背のある所に設けある板をもいう。せいたいがく/生態学
ecology(英) Oekologie(独) 生物と環境、生物間の関係を研究する自然科学。植物生態学、森林生態学、個体生態学、植物生態学等。せいちがい/せい違
水平の異なる場合にいう。せいふん/正吻
大棟の両端に設けたる鴟尾をいう。「吻」とは大口を開きたる貌にいう語なり。それより転じて口を噤じいるものに吻字を充て終わりに原意を失うに至れり。旁吻は口を噤しえるもの多し。せいぼく/制木
留木(とめぎ)。幕制時代に幕有林の特定樹の伐採を禁止または制限したこと。せいでん/正殿
神社建築においてはその本殿即ち神体の在る所をいう。せいようしたみ/西洋下見
押縁がなく一面横に張るもの。せいろうぐみ/井籠組
木を横に組合せて且つ重なり合わす場合にいう。蒸籠の如く重なり合わすとの意にてその名あり。せいろうばめ/井籠羽目
校倉又は総て井籠組になしたる建物の周囲をいう。せがねのこぎり/背金鋸
薄い小鋸なり。その折れるのを防ぐために背に鋼を添えてある。せきいた/堰板
山留柵の板をいう。開板とは板屋根の粗末なるものにて棟より軒まで一枚板しなしその板を羽重にして上に押縁を打ち又は石を載せて風害を防ぐなり。せきいたさく/石板柵
山留柵に同じ。「やまどめさく」を見よ。せきいり/席入
茶会に招かれた人が外待合から初めて茶室に入ること。初座入、座入り、初入り。せきしょうしせんにん/赤松子仙人
左は小池佐太郎の毛筆画習作。 手本にしたと思われる絵は 国立国会図書館デジタルコレクション『萬物雛形画譜』 の 5 に収載されています。せきたんがら/石炭殻
石炭を焚きたる後の燼遺をいう。石炭燼とも書く。せきたんかす/石炭滓
前に同じ。せきとう/石燈
石燈籠のこと。石燈は石塔(供養燈・墓碑)ではない。せきばん/石板
粘板岩をいう。石盤とも書く。せきざい/石材
土木建築用語なので造園関係者は使用しない。せきりょう/石梁
石橋のこと。せっきょう/石橋
石造の橋のこと。セクション
切面をいう。これを木口ともいう。セクションペーパー
碁盤目紙をいう。又方眼紙ともいう。せっしゃ/摂社
本社の祭神と由緒の深い神をまつる社のこと。本社と同じ境内にまつられることも、別の神社のこともあるが、どちらも本社の支配を受ける。奈良石上神宮の摂社出雲健雄神社、春日大社の摂社若宮神社など。→まっしゃ/末社せっちかなもの/接地金物
二輪屋台の手木の先端が地面に接地したとき、木部や錺金物が損傷することを防ぐために取り付ける金物です。こうした金物は簡単な図を描いて鍛冶屋さんに作ってもらいます。せっちゃくざい/接着剤
木質部に用いる場合は腐朽といった生物的な劣化が生じるため、相手の木材の 強さ以上の接着力や耐久性は期待できない。 接着剤による接合は初期剛性が高く強度も高いが粘りが(破壊までの変形が小さい)ないので、一度初期破壊が起きると接合部全体がもろく破壊しやすい。せっちゅうよう/折衷様
大仏様ゆ禅宗様の技法を積極的に和様に取り入れた新しい建築の創造を指向した 建築様式。外観、内部とともに縦長のプロポーションを持つ。兵庫の鶴林寺本堂、 広島の明王院本堂など。せっちん/雪隠
茶庭の露地にあるトイレ。別名に、東司(とうす)、後架(こうか)、西城(西城)。 ⇒ 下腹雪隠や砂かけを参照せっちんでまんじゅう/雪隠で饅頭
人に隠れて、われ一人よき事をするをいう。せっちんとぶつだん/雪隠と仏壇
「雪隠と持佛はなくてはならぬもの」に同じ。せっちんのむねあげ/雪隠の棟上
小家の建築をいう。せつはときをきらわず/節は時を嫌わず
諺せみ/滑車
物を引揚げるときに用いる小車にしてそれに網を周らして引揚げるなり。せみぐるま/蝉車
江戸時代に木石を吊り上げ、曳き出すために使った道具。せみまるがたしぐれどうろう/蝉丸形時雨灯篭
蝉丸灯篭せみどうつき/せみ胴突
足場の上方に滑車を取付けてそれに網を周らして左右両端を数本に分岐せしめ多数の人足にて引又は弛めて大真棒を上下せしめ以って地固めをなす器械なり。せみね/脊峯
最上部の稜をいう。セメント
水を混ぜて時間が経つにつれて漸々硬くなるものなり。セメント入りモルタル
石灰と砂にセメントを混ぜかつ水を加えて作りたるモルタルをいう。セメントコンクリート
石灰を混ぜずしてセメントのみを砂と砂利などに混合して作りたるコンクリートなり。セメントモルタル
砂とセメントにて作るモルタルなり。せり/迫
「せりもち」の略称。せりだし/糶出
劇場の奈落より舞台へ役者が出現する口をいう。せりもち/迫持
窓入り口等の如き壁中の竅上に設けたるものにて、石又は煉瓦などにて作り壁の上部の重さを支障するものなり。せりもちうけいし/迫持受石
迫持の起点にある石をいう。せわり/背割り
一丁取りの柱は芯持ち柱と呼ばれ、乾燥すると節があってもなくても干割れが 生じる。そこで仕上がって見えなくなる所の一面に鋸を縦に柱の芯まで入れて やり、干割れする分を集中させて、あらかじめ割れていい道筋をつけてやること。せん/栓
指口にて一方の木が外れない様に打ち込む木をいう。せん/石へんに専・専へんに瓦
中国庭園に多く使う平板状の敷瓦。形状によって名称が異なる。せん/銑
鉄製の栓をいう。ぜんいた/膳板
窓下などの板をいう。せんけ/千家
千利休が自刃し、その孫の宗旦が千家流の茶道を立てた。 宗旦の第三子宗左が表千家。 宗旦の第四子宗室が裏千家。 宗旦の第二子宗守が武者小路千家。 以上、千利休の曾孫が始祖である。せんけのしけ/千家の四家
宗旦、宗左、紹智、宗偏。(明治の資料より)ぜんしゅう/禅宗
茶道の背後にある禅仏教。教義を持たず、仏像を持たず、ものを考えない(修行・瞑想に精神を集中させるために、 それ以外のことを規格化(禅宗清規など)して迷いを無くし、自我を脱却することを目指している)仏教。ぜんしゅうよう/禅宗様
唐様ともいうが禅宗寺院に用いられたことから禅宗様。 鎌倉時代に禅宗の伝来とともに中国から移入された建築様式。 奈良で大仏様による東大寺が再建中だった頃、京都と鎌倉では、宋で禅宗を 学んで帰った栄西と道元が禅宗をもたらし、宋の禅寺に倣った建築様式の寺が 作られるようになった。禅宗様は、扇垂木を用い、貫を通し、柱間にも組物を置く等の特徴がある。(禅宗様と大仏様は、同じ時代に中国から伝来した建築様式であるが、禅宗様は宋代中国の正統派建築であり、大仏様は中国南部の様式である) 円覚寺舎利殿、東京の正福寺地蔵寺など。 →大仏様(鎌倉時代)、→和様(奈良時代)せんすぐるま/扇子車
「むねあげしき」を見よ。ぜんそうじ、しんごんりょうり、もんとはな、もりものほっけ、じょうどじだらく/禅掃除、眞言料理、 門徒花、盛物法華、浄土自堕落
各宗派の特色をいう。ぜんたてのま/膳立ての間
食堂へ膳を出す前に之を準備するための室をいう。古くは台盤所といった。せんだん/栴檀
普通に「オウチ」と呼ばれている樹。木肌はケヤキに似るが材質はやや劣り軽軟で日常の器具や下駄にケヤキの代用品として使用されている。彫刻には京都太泰広隆寺の毘沙門天があるが、平安時代になるとさらし首をかける木に使われたそうである。このとき京の左獄と右獄の外にオウチの木が植えてあり、それに梟首したことから獄門と呼ばれるようになり、さらし首の台には必ずオウチが用いられ、忌み嫌われる木になったという。〜栴檀の林に入る者は染めざる衣自ら香し〜 〜栴檀は二葉より芳し〜
ぜんち/ぜん地
「いぬばしり」を見よ。せんちゃ/煎茶
葉茶。1654年に明から日本に渡来した隠元が伝えたという。摘んだ茶を一度蒸して揉んだのちに撚ったもの。いわゆる緑茶。せんてつ/銑鉄
づくてつともいう。鎔鐵爐より流出する鎔鐵は砂溝に入り凝固する。これを銑鉄と称す。せんでん/泉殿
寝殿造りにおける一棟の殿にして四方吹抜けなるものなり納涼所なるべし。せんどうき/前童鬼
上右の画像は国立国会図書館デジタルコレクションから クリップしたものです。絵師は葛飾北斎なのですが、収録されていた書名は忘れてしまいました。
その後、左の絵を音川安親編 万物雛形画譜.1 国立国会図書館デジタルコレクション (画工は鮮齊永濯)の中から発見。この絵を手本にして描いたことは明らかです。「ぜんどうき」ではなく「せんどうき」という読み方も判明。
ちなみに、萬物雛形画譜の版権は明治12年、北斎は江戸時代の絵師ですから、北斎の前童鬼がオリジナルかも。
これと関係ないと言えば関係ないのですが、関連の検索していて興味を持った 天燈鬼と龍燈鬼について調べてみようと思い、興福寺のHPを見たところ、製作者についての記述が見当たりませんでした。よって、 東京帝室博物館編 日本美術集成. 第1輯 下巻 国立国会図書館デジタルコレクション より引用し、メモしておきます。(建保(けんぽう)3年は1216年。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時)
龍燈鬼 木製着色 康辨作
長 二尺六寸 奈良市 興福寺蔵
この龍燈鬼と称するものは順徳天皇の建保三年に法橋康辨の作りしことは、その
胎内に墨書せる文の証する所なり。康辨はかの有名なる運慶の第三子にして湛慶
及び定慶の弟なり。この人の作として知らるるは、これと次の天燈鬼のみなれど、
両者に於ける奇抜なる意匠と全体の姿勢より筋肉骨格等の細部に至るまでの
巧妙なる技量とに依りて察するに、その手腕は父兄に比して敢て遜色なきを知る
べし。実にこの両者は作者及び製作年代の正確なる者としてのみならず、佛天像
以外の稀有の遺品として珍重すべきものなり。
天燈鬼 木製着色 康辨作
長 二尺六寸 奈良市 興福寺蔵
龍燈鬼と共に康辨唯一の遺作にして、龍燈鬼の静的なるに反して、
これが動的形態に現されたる作者の手腕の非凡なるを見るべし。
せんとうせりもち/尖頭せり持ち
上の尖ったせり持ち。せんとうせりもち/尖頭迫持
上の尖れる迫持をいう。せんのりきゅう/千利休
1522〜1591 。本名は与四郎久明、父は田中与兵衞、祖父は千阿弥。 利休は東山流の北向道陳(きたむきどうちん)に茶を学び(19歳)頭角を現す。北向道陳は交友であった武野紹鴎に 利休を紹介し茶を修める。武野紹鴎は利休に「台子(だいす)」を伝える。 (台子とは、昔、南浦紹明が入宗、径山寺で修行し、帰朝したとき持ち帰った茶道具(点茶用の棚)のこと であり、(室町後期茶道の祖)村田殊光⇒道甘⇒松本宗悟(十四屋宗悟)⇒武野紹鴎⇒利休、の経路で 台子(書院台子の茶)が伝えられた) 後に利休は大徳寺の笑嶺和尚について禅を学び、 剃髪してからは「宗易(そうえき)」と名乗った。 武野紹鴎は利休を信長に推挙し、信長に仕え安土城にも出入りし 茶頭(さどう)となった。 信長の死後は秀吉に仕え、茶頭となり三千石を領した。 1588年(天正15年)秀吉の聚楽城内の聚楽第に正親町天皇の行幸を仰ぎ天下の茶人を伺候させた。 この時秀吉は(宗易の宮中参内のために)古渓和尚に命じて宗易に「利休」の居士号(の身分)を授けた。 茶人として名声と権威を誇っていた利休は、利休の一人娘の吟子を秀吉に所望されたのを拒絶するなど、 たびたび秀吉の怒りにふれていた。1590年大徳寺山門金毛閣上に利休の自像を挙げたことから(一説) 秀吉が怒り、切腹を命じられ70歳にて辞世。 利休の首は一条戻橋で梟首、千家は改易、この時利休の長子はすでに死し、吟子は失踪、第二子 宗淳(少庵)は幼少であった。その後、利休の孫(宗淳の子)宗旦に至り千家は立ち直る。⇒ 三千家利休は京都の聚光院(じゅこういん)に葬られている。墓標は高さ6尺の多宝塔(特有の形)。